公務員・私立病院・海外で10年間働いた私が訪問看護ステーションを起業するまでの軌跡
私は経営が難しいと言われている訪問看護業界で11拠点を1都5県で展開しています。(2019年6月時点)
訪問看護ステーションの経営がどのくらい難しいかというと、平成29年には1,221か所の新設ステーションができていますが、廃止・休止となってしまうステーションが廃止482か所、休止228か所と、年間でみるとあまり増えていないのが現状です(平成30年度訪問看護ステーション数調査結果:一般社団法人全国訪問看護事業協会)。
その中で従業員120名の会社を6年で創り上げることができた経緯を説明したいと思います。
訪問看護ステーションは看護師3名で容易に開設ができ、ハードルが低い一方で、継続運営が難しいのも事実あります。
その中で私が現在の結果を出すことができたのは、自分が選択ミスしたことや、失敗したと思っていた起業前の経験が、実は起業した現在に繋がったからだと思います。
皆さんも現在辛いことや悩むことが多いと思いますが、実際過去の経験が大きな財産になり、プラスに転換することも多いと思います。私の経験や考えに触れて、チャレンジすることの大切さ、そして失敗は成功の元に繋がることを理解して頂ければと思い、まとめさせて頂きました。そして、転職は処遇などに揺らぐのではなく目的が最も大事というポイントも伝えたいと考えています。
私は看護師として、地方公務員としての病院勤務や、医療法人設立の病院勤務、そして海外でのボランティアや派遣看護師として多様な働き方を経験しました。実際華麗な経歴に見えるようですがこの経歴が日本の医療現場で評価されたと思ったことはありません。勤務時代はICLS(Immedeiate Cradiac Life Support:突然の心停止に出会ったときに、どう対処すべきか)の資格や防災士の資格なども取得し、認定看護師も一時期目指しました。看護師は高給取りと言われますが、昇給の割合はあまり高くないことと、マネジメントなどで役職者になるには、今現在そのポジションの人が退職するまで待ち続けなければなりません。その中で看護師として長く働くうえで、頑張った成果を享受できるにはどのような働き方が一番かを模索し続けました。
※ICLSとは・・・医療従事者のための蘇生トレーニングのこと。心停止直後の処置には、あらゆる医療者がチームの一員として参加し、蘇生を行うことが求められ、その技術の総称をいいます。
その模索中、私は大きな挫折を3回経験することになります。
まず一回目の挫折は公務員時代になります。
努力すれば報われるという言葉を性善説のように信じ続けて努力しました。その結果任意でやっていた仕事が義務化され、ワークライフバランスを崩壊させてしまうという結果になりました。
二回目は医療法人での経験です。
公務員とは違う評価を信じて、違ったやり方で公務員時代以上に努力を行いました。しかし、結果は変わりませんでした。看護師として日本で働く場合、努力を続けていたとしても、ポジションや報酬という形では報われないことがわかりました。
そして最後は努力をすれば報酬が上がることを知り目指したオーストラリアでの挑戦です。
文化の違い、言葉の壁、業務範囲の違いなどを現地でまざまざと痛感し、ここでは生きていくことに自信を失うほどの挫折を味わうことになりました。
一時期は看護師だけでなく、働くことにも絶望を感じるようになりました。
しかし、フィリピンで新たな看護観との出会いがありました。「家族なんだからみんなで看るのは当たり前だろ」、「じいちゃんは家にいるのが一番幸せそうにするんだ」という友人の言葉にハッと気づかされ、様々な経験を経た上で訪問看護ステーションを経営するという選択に至りました。また、この挫折や経験が現在の結果に結びついていると考えています。
今振り返ると、無駄な経験は一切ありませんでした。冷静に考えるとそれぞれの働き方の強み、弱みがわかりますが、結果、私には訪問看護を選んでよかったという自負があるので、経過とともにその当時の考え方や実際におきたことなどをご紹介したいと思っております。
目次
1.地方公務員として新卒から5年で辞めた理由
私は新卒で静岡県のとある公立病院に公務員として就職しました。
いずれ海外で働きたいという想いを汲んで頂いたようで、なぜか希望部署ではない、手術室・救急という部署に配属されました。正直一番行きたくなかった手術室という場所でしたが、よい先輩に恵まれたこと、先生からも指導を頂けたこともあり、必死に技術を磨く日々を送りました。救急外来での勤務や、ICLSに力を入れている先生にも指導を頂き2年目でインストラクターの資格もとるくらい勉強をしました。また土地柄地震も多かったので4年目には師長に相談して、防災士の資格もとらせて頂きました。充実した日々を送っている中で認定看護師を目指し、まずは講習を聞きに行きました。
しかし、そこで出会った認定看護師からのアドバイスや、頑張って働き続けた現状の結果を見て、私は公務員という立場を捨てようと強く決意しました。ここでは、私がなぜ公務員という立場を捨てようと思ったのかについて、説明していきたいと思います。まずは認定看護師や公務員で働いている方に一つでも知ってもらえればと考えております。
1-1:手術室の給料は最下層、だが成長したいならここ!
看護師経験を10年以上経て想うには、手術室の経験は非常に活きています。なぜなら、ほぼ全ての手術に立ち会うことで各科の勉強が一番できるからです。
幸いにして私の配属先は月に2~3回救急へのヘルプや夜勤もできたので尚更勉強する環境がありました。同期の看護師が病棟で大変というが、その比ではなかったと思います。でも、いずれ海外で働く勉強になるかも、何より新しいことの学びという環境が楽しかったと思います。自分から進んで外部の講習や、院内の勉強会に参加して、多くのことを学びました。ただ半年が過ぎるとあることがわかります。
手術室は夜勤が少ないため、同期と比べ給料が3~5万も安いんです。充実して楽しい日々でしたが、同期から聞く給与格差に驚きを隠せませんでした。
1-2:手術室最大のネック!眠れない日々がつづくオンコール
オンコールとは看護師の勤務形態の一つで、緊急時にすぐに職場に向かい業務ができるように看護師を待機させておくものになります。手術室で多くの方が嫌に感じるオンコール業務。いつ電話が鳴るかもわからない環境で、食事もお風呂も寝る時も気が気でなく心から休まる瞬間はなく、本当に嫌でした。
基本的には8:30~17:30の業務ですが、手術が押したらオンコール担当者が残業して対応します。定時で上がれたとしても、翌日の8:30までは基本オンコール担当が緊急手術対応を行います。月にもよりますが大体6~8回ほど当番があり、眠れない日々は続きました。特に帝王切開や、消化管穿孔、クリッピングの手術で呼ばれたときはスピード違反で捕まるかもと思いながら道をかっ飛ばして家から病院に行きました。お風呂に入るのもドキドキで鳴らないようにと祈りながら、携帯を足ふきマットに置いて入っていました。
手当がよければもっと頑張れましたが、実際は平日1,000円、土日は2,000円というものでした。本当にオンコールの日は呼ばれないことを祈っていましたが、神様は試練を与えてくれて、割と呼ばれることが多かったです。オンコールは嫌でしたが、自分が早く駆け付けることで助かる命があったり、患者様の苦痛が早く取り除けることがわかりました。
徐々にオンコールをすることが看護師としての使命と感じ、やりがいに繋がっていきました。
その経験が、当社で24時間365日訪問看護でのオンコール対応を当たり前にしよう、利用者様目線で対応しように繋がる結果となりました。
※オンコールとは・・・看護師の勤務形態の一つで、緊急時にすぐに職場に向かい業務ができるように看護師を待機させておくものになります。基本的には自宅にいるのですが、緊急手術が決まったりすれば勤務を課すようになります。病院によって条件やルールは異なりますが、緊急用の電話が支給され、30分以内に勤務できるような準備を強いる病院が多い。手当は平日1.000~2.000円、週末は2.000~4.000円程度。
1-3:自信をつけるために取得したICLSはスキルにはプラス、プライベートタイムはマイナス
当時まだICLSがあまり盛んでなかったため、私の住む地区では啓蒙活動が行われました。医師が主導で行っていましたが、なぜか2年目であったのに私に白羽の矢がたちました。「せっかくなので資格も取ってしっかり勉強しろ」と言われて二つ返事で毎週講習に行きました。新しい学びは楽しく、休みを削ってお金も削っての参加でしたが、充実していました。インストラクター取得後は院内で毎月講習を行い、毎回指導で入りました。
毎月の講習が行われることで1年経った頃、「これからはメインで毎月やってね」と言われました。今までは学ぶため、そして新たな技術の習得のためと思っていました。手当も出ず、ボランティアで行っている中、こう言われてしまい自分の中で気持ちが切れてしまい、毎月の参加が徐々に2か月に一回、3か月に一回と減っていきました。
そうすると周りからは「やる気がない」と言われるようになり、徐々に足が遠のいていくようになりました。ただ学んだスキルは大きく非常に有意義になりましたが、自分の時間というものは犠牲になったように感じました。
1-4:4年目で先輩の給料を聞いて愕然
手術室で4年働くと周りが見えてきます。またリーダー業務も始まったりと辛くもありましたが、また新たな挑戦がありました。
ふと、自分の実力が上がっていくにつれ、今後の将来に不安を感じるようになりました。満を持して先輩に将来に関して、思い切って給与に関しても聞いてみました。
すると驚いた額でした。5年目の先輩でしたが、ほぼ私と変わらない給与なのです。差額はたった1万円程度でした。
でも思い返してみると、新人の頃と比べても1万円くらいしか変化がないんです。管理職には聞けなかったんですが、先輩から話を聞く限り「とにかく長くいれば給料が上がるという変な世界」ということを聞きました。仕事ができなくても20年以上在籍している先輩は我々よりも10万円近く違うと。
結局公務員という職業上、年功序列が強く、昇給するには長くいることが一番の正義。努力での変化はないことを知ります。そこで、看護師として給与が上がって評価をされるために、認定看護師というキャリアアップを目指そうと考えました。
1-5:夢の認定看護師に会いに行くと。
先輩の給与の話を聞いて夢がないと感じ、次の目標に手術室の認定看護師をおきました。給与の時のように、後で知って愕然とならないように、実際に認定看護師に会いに行こうと思い、講習会に参加しました。
講演をしている姿はかっこよく正に私の理想でした。運のいいことに先輩の同期でもあった認定看護師の方と食事をする機会を頂きました。期待に胸を膨らませて会いに行くと思いもよらないことを言われました。
「認定看護師なんて目指すものではないよ」
衝撃の言葉でした。その方は制度が始まってすぐに認定看護師になられて、主任にもなられていました。でも実際は認定看護師を維持するための講演会や課題に追われる毎日だったようです。また認定看護師になるための学校も病院の支援で行ったため、途中で辞めるとも言えないし、認定看護師分野以外で働くことが許されない状況でした。やりがいはあるけど、縛りや今後の可能性を狭めてしまうことを知り、まだまだ多くのことを経験したいという思いがあったため、認定看護師という夢は一瞬で砕け散りました。
1-6:そして公務員を辞めると決断!でも障壁は大きかった。
認定看護師の希望もなくなり、キャリアアップに疑問を持ち、公務員がいけないのではと思うようになりました。そして意を決して辞めるという決断をしました。この決断後には上司の壁、家族の壁、友人の壁という3つの壁にぶち当たりました。
1-6-1:富士山より高いと感じた上司の壁
認定看護師に会いに行き、1か月で運よく上司との面談がありました。
実際の面談は、仕事内容や、今後のキャリアアップの話ばかりでした。しかし、私は意を決して「退職をしたいです」と伝えました。すると、上司の顔が正に「鬼の形相」に変わったのです。今まで育てた恩はなんだったのか、これから輝かしい未来がある、海外に行く夢を叶えるためにはもっと頑張れなどなど。次には看護部長の面談をセッティングされたり、他の師長にも呼び出される始末でした。
病院を辞めるとはこれだけハードルが高いことを痛感しました。先輩方が「辞めたい」といってもほとんど辞めない背景がよくわかりました。
1-6-2:公務員という田舎でのブランド力の強さと祖母の落胆
両親は資格を取れば何も言うことはないと、看護師免許取得後はあまり私のキャリアには干渉することはありませんでした。
しかし、祖母が公務員になって喜んでいた分、辞める話をしたら激しい落胆を示しました。親戚も通う病院であったので、親戚含めて「辞めるの勿体ないんじゃないの?」と言われるようになりました。普段何も言わない祖父も「頑張ったほうがいいと思うぞ」と言ったのは衝撃でした。田舎での公務員というブランド力を手放すことに対して、親戚まで反対されてしまいましたが、私の意思は固くありました。でも祖母の「辞めようと思う」と言った時の落胆はなんとも言い表せないものでした。
1-6-3:友人も理解に苦しんでしまう公務員という響きと待遇
友人同士ではあまりお金の話をしなかったのですが、公務員で特に看護師は夜勤などの兼ね合いもあり、給与はかなり多い部類になるようです。また公務員試験に受かっても採用されない友達もいました。そんな中で病院を辞めようと思っている話をすると、意外にも「贅沢言わないほうがいいよ」などの声が上がりました。また友人の親からも「考え直したほうがいいんじゃない?退職金も考えなよ」などと考えもつかない話をされました。
自分のおかれる環境の素晴らしさを「辞める」というキーワードで改めて知ることができました。
でもこれだけの壁がありながらも私立の病院に行くという自分の本当にやりたいこと、そして頑張った証を手に入れたいという想いをもって公務員を辞めるということを敢行しました。しかし、壁は厚く実際辞めるまでには1年半近くの歳月を費やしました。正直公務員として働く上で休みの担保や勉強する環境は多分にあるので、今の私の礎を築いてくれたのは間違いなく、この時の経験だったと思います。看護師として次にステップアップも含めて公立ではない病院に挑戦することを選択しました。
2.公立も私立も根本は変わらない、日本の病院の事情
公立では頑張っても評価されないと感じ、私立の病院で働いたら変わるのではと、意気揚々で努めましたが、すぐに病院はどこも一緒で努力よりも大事なのは勤続年数なのを入社して1か月で知りました。目標を見失いつつも、せっかくの機会なので一生懸命勉強しますが、結果は1年半で看護師という仕事自体を諦めました。その理由を紐解いていきます。
2-1:多くの男性看護師から学んだ、公立も私立も環境は同じということ
私が次に務めたのは希望していないICU病棟でした。ここでは20名以上の看護師在籍なのに私を含めて7名の男性看護師が働いていました。そのため、男性看護師の私も仕事がしやすいようにと配慮で配属されたと思いました。
しかし実際は希望者がいなく、人が少ないのが大きな理由でした。優秀な方ばかりで皆さん勤勉で、呼吸療法士やICLSの資格を持っている方ばかりで本当に学ぶことが多かったです。
そこで先輩が教えてくれたのは「看護師は処遇で頑張るのではなく、いかに専門性を高めるのが大事」ということでした。私が思う頑張ったら評価されたいというものは皆無でした。印象的なのは尊敬する先輩が院内のVAP(Ventilator Associated Pneumonia)を予防するために閉鎖式の器官チューブを看護研究で実践して、証明され院内で採用されました。これは推定のようですが1,000万円以上のコストカット(医療費の抑制)が実現したのに、評価は金一封のみ。こんなに頑張る男性看護師はみたことがなく、私の努力が足りないのも痛感しました。しかし、このことで私立も努力や成果より在籍年数が評価される環境であるということを知るきっかけになりました。優秀な先輩のお陰でこのことに早く気付くことができました。
※VAPとは・・・人工呼吸管理中に発生する院内感染の1つ
2-2:やっぱり3交代勤務はきつい
現在、多くの病院が2交代勤務の中、3交代勤務を経験できたのは貴重でした。しかし、2交代勤務をおこなっていた身からすると体力的にも精神的にも非常にきつかった印象があります。
日勤は8:30~17:30、準夜は16:30~1:30、深夜は0:30~9:30という状況で、3日連続準夜の日があります。すると夜眠れなくなります。なぜか朝まで起きていてしまうという日が続くと、次に日勤や休みの日が非常に辛かったです。20代だったから、可能だったと思いますが長くは続けれないと強く感じました。2交代だと精神的に気持ちを張っている時間が長いという理由で3交代をしている病院がいくつかありますが、働く側としては2交代の方が多くの看護師からも支持は集めていると感じます。
体調管理という面を考えても夜勤という働き方は見直さないとと強く感じました。
2-3:私立だと仕組みが変わることを知った1年後の私
公立と私立の大きな違いは賞与や休暇、システムなどの仕組みの変化でしょう。
最初は気付かなかったんですが、賞与制度も公立は一律で大きな変化はないですが、私立はやはり業績により大きく変動します。また、病院あるあるで、フレッシュアップ(世の中で言う夏休み)なども年度ごとに設定が変わります。システムなどもいいものがあれば改修することが多かったことは、公立とは大きな違いだと思いました。
ここで1年半務めて日本で看護師をするうえではベースは同じで長く続けること、そして夜勤を多くやることが正義だと学びました。日本での看護師の評価軸は勤続年数と夜勤にどのくらい入ったかで決まります。ここには専門職としてのスキルや知識はほとんど関係しないのです。管理職を目指すにも上は詰まっているので、チャンスは長期就業以外なかなかないことを改めて知りました。そんな中、海外での看護師はどうなんだろうと興味を持ちました。年収1,000万円も夢ではなく、業務範囲も違うということを知り、すぐに次に移る準備をしました。
3.夢の海外生活、ワーキングホリデーでボランティアをしながら勉強
私は元々青年海外協力隊で働きたいと思って看護師を目指しました。
色々学んでいるうちに、医療の魅力に魅かれ、努力することで叶うこと、助かる命が増えることを肌で感じ、勉強をしていきました。その中で、やりがいや努力、スキルが評価されるオーストラリアで看護師をやりたいという考えに至りました。しかしながら、オーストラリアで看護師として働くことは、文化や言葉、業務範囲の違いなどが大きな障壁となりました。オーストラリアでの看護師という目標に挫折をし、私は目標を見失うことになりました。
3-1:文化の壁は想像以上!日本人気質はオーストラリアは合わない?
オーストラリアに行って一番感じたのは時間の間隔の違いです。語学学校ですら定時で始まらず、最初にホームステイに行った時にも時間の流れが全く違いました。バスなども遅れるのは当たり前で時刻表はあってない状況です。日本で規則正しくが嫌だったという方には合うかもしれませんが私には合いませんでした。
また衛生面も違います。高級店は違うかもしれませんが、オーストラリアの代表的なファーストフード店などは清潔感が日本と比べると圧倒的に違います。ゴミが落ちていることも非常に多くあります。スーパーなども大型ではありますが、あまり衛生的には感じませんでした。一番は移民国家であるため、様々な人種がいます。多くの考えに触れて楽しい面もありますが、違いを感じることも多くストレスになることも多くあります。
私はこの文化の違いにまずは圧倒されました。
3-2:日本人は本当に英語が弱い・・・語学力の違いと大きなギャップ
日本人の多くが英語が苦手で、私も得意ではありません。語学学校はクラス分けをされますが、初心者コースに行けば行くほど日本人の比率が高い状況です。多くの場合はAdVanced、Intermediate、Elementary、Beginerに分かれていてAdvancedの日本人は本当に少なかったです。私はElementaryクラスから始まり、なんとかIntermediateまで上がりましたが、Advancedとの壁は大きなものに感じました。その他、ボキャブラリーも圧倒的に足りず、単語力の無さが立ちはだかりました。ただこれは一般会話になります。医療用語はもっと複雑でかつ、発音の間違えが命取りになります。
英語を学べば学ぶほど自信を失うと共に、オーストラリアで看護師をすることに現実味がおびなくなりました。通常会話に困らないとしても壁は高く感じると共に現地の大学を受験する壁も感じました。
3-3:看護師としての資格、そして業務の壁
オーストラリアで看護師になるためには、資格を改めて取得しなければいけません。なぜなら日本で学んだことと違う部分があるからです。
3-3-1:看護師の資格をとるための道のり
オーストラリアで看護師になるためにはいくつか方法があります。私のような専門学校卒業の看護師は、オーストラリアの看護大学の、コンバージョンコースで学位をとる必要があります。最短で1年ですが、IELTS6.5(International English Language Testing System)という高い壁があります。
看護大学を日本で卒業している看護師はオーストラリアの医療従事を取り扱う団体が認定するコースを受ければ最短で働けますが、高度な語学力を求められます。コース自体は11週前後ですが、申請からコース開始まで半年以上かかるので、やはり1年近くはかかってしまいます。勿論これ以外に就労ビザの取得や、看護師免許取得後に働かせてくれる病院の試験もあります。
※IELTSとは・・・イギリス、アメリカ、オーストラリアなど120カ国、約6,000の教育機関・国際機関・政府機関が採用し、年間140万人が受験する、世界的に認められた英語運用能力試験です。
3-3-2:オーストラリアでは日本でできない医師に近い業務も行います。
看護師だから給与が高いのではなく、医師の仕事も一部請け負っているのが一番の違いです。特に処方箋を出せたり、ドレーンなどの抜去が可能なのも大きな違いです。やはり業務が違えば、賃金も違うという仕組みです。最低の時給が30~40ドルという違いはそこから来ます。また専門職としてスペシャリストになったり、マネージメント業務をすることで処遇は変わるので、私が目指すものはあるように思えました。
ただ、患者様のケアということに注目するよりも、治療(キュア)という面を重視するスタイルが私には少し違和感を覚える状況でした。
オーストラリアでの看護師は魅力もあるし、やりがいもあると感じました。当初は永住する気持ちで行きましたが、実際行ってみると日本人である私には違和感があり、ここで頑張ろうと思うことはありませんでした。ここで看護師以外の仕事をつくべきなのか、何をすべきか非常に悩みました。そこで私はオーストラリアで出会ったバックパッカーの刺激をうけ、色んな国に行くうちに次の道が見つかる結果になりました。
4.フィリピンでの新しい看護観との出会いと新たなる視点
私がいくつかの国を周る中で、たまたま仲良くなったフィリピン人の友人がいました。オーストラリアで現実の厳しさに打ちのめされた状況で、その友人宅に行く機会がありました。
自宅で過ごす友人には寝たきりの家族がいました。私はその状況をみて「なんで家族で看るの?どこか預けたり病院でって考えないの?」と何気なく聞きました。友人はまっすぐな目で
「家族なんだからみんなで看るのは当たり前だろ」
「じいちゃんは家にいるのが一番幸せそうにするんだ」
と言ったのです。
看護観を揺さぶられる一言でした。
住み慣れたご自宅でご家族にあたたかく見守られて療養するということ。看護のあり方を間近にみた思いでした。この時の体験がその後も強く影響しています。その証拠に当社では「利用者様にとってもう一人の温かい家族のような存在を目指す」という理念を掲げています。
帰国したのは2011年。日本では在宅医療はどうなっているのだろうと調べはじめたところ、介護保険法が2000年に施行され、在宅での仕事が注目されはじめていました。私が学生の頃ようやく在宅看護論という勉強を行い、実習でも数日研修したのみでした。訪問看護師になるという選択肢は全くありませんでしたが、看護師でも起業ができるということを知り、益々興味をもって調べるようになりました。
この頃、私のやりたいことは、これだけ多くの経験をする中で看護師という仕事をもっと社会に認められる仕事にしたいということでした。
訪問看護という分野はまだ広く知られていませんでしたが、今後も需要が増すであろう分野でもあり、一石を投じることができるかもしれないという思いで、強く興味を惹かれるようになりました。
5.訪問看護ステーション起業までの軌跡
訪問看護ステーションを設立するには3人の看護師という条件のみでした。また、会社を興すには法人登記が必要とのことで、資金を集めるためにも給与の高い派遣の仕事を始めようと決意します。そして同じ気持ちを持ったスタートアップメンバーの看護師をどう探すかを模索しながらステーション設立の準備を行いました。
5-1:開業資金1,000万が基本?一番高額給与でかつ辞めるのに困らない仕事、それは派遣でした。
根拠もないがとにかく1,000万必要と感じ、条件のいい仕事を探すと、いくつか派遣や夜勤専従の求人が出ました。今まで派遣という働き方を選んだことはありませんでしたが、月給40万以上という言葉につられて選びました。
私の配属先は、HCU(High Care Unit)を併設した脳外科・循環器病棟でした。ここで私は派遣という、今まで見てこなかった世界を知り、正社員と派遣の違いを体験することになります。
※HCUとは・・・高度治療室のことです。中枢神経、呼吸、循環、代謝の失調や、重度の急性臓器障害を呈し、厳密な呼吸・循環管理などの専門的な治療や看護を必要とする患者様が入院する場所です。
5-2:常勤と派遣、責任は2倍だが給与は・・・
私も今まで勤めた正社員は委員会があったり、リーダー業務や後輩育成が課せられました。正直、サービス残業も多かったり、周りが残業していると帰りにくい雰囲気が満載で、よく手伝いをしていました。
一方の派遣は、基本業務以外の雑務は一切ありません。時間が経てば帰るように促されるくらいです。そして仕事を手伝うと残業付けて下さいとわざわざ言ってもらえる始末です。では年収はというと確かに賞与の有無はありますが、年収ベースは150万前後派遣のほうが多かったです。退職金や福利厚生などはありませんでしたが、この時に働き方や考え方はとても大事だなと感じました。スポットの派遣は正社員にしたいから大事にするが、正社員は大量の雑務にサービス残業もおかまいなしの状態でした。
そのため、勤務形態に関わらず看護師1人1人を大事にするステーションを作ろうと決意しました。
5-3:空き時間はステーション経営者、管理者に会いに行きました。すると予想だにしないことが。
訪問看護ステーション経営をしている先輩に話を聞きに行くと、既に廃業予定になっていました。訪問看護ステーションは看護師3人いれば開業できます。但し、3人の場合1人でも看護師が欠けると施設基準を満たせず、閉めざるを得ません。そのため、看護師が退職してしまったことで廃業を決めて残務に追われている状況でした。
先輩の失敗は、一緒に起業する仲間選びの失敗と、営業が思う様にいかなかったことのようです。不思議と話を聞いたことで、逆にこの先輩の失敗を活かすようにと言われた気持ちになりました。その後、病院併設の管理者の方には、訪問看護の魅力と読むべき本(訪問看護業務の手引き)などを教えて頂く機会がありました。よくいう「ヒト・モノ・カネ」をそろえることの重要性を再認識しました。
5-4:イメージはワンピース、一緒に起業できる仲間集めへ!
私はとにかく看護師が「いきいき働く」ということをモットーに頑張れる人がいないかと、勉強会やイベントなどに可能な限り顔を出しました。そこで出会ったのが創業を支えてくれるメンバーでした。イメージはゾロとナミです。(そんなワンピース知らないのに申し訳ありません)
でも、この出会いは同じ目的を持った仲間と仕事をする大切さを教えてくれました。中には一緒にやりたいのに自分で起業してしまう看護師もいました。絶対振り向かせてやるという反骨心で起業の準備を行いました。
5-5:1,000万が基準ではない、タイミングは自然とやってきた。
正直、資金集めだけに注力したのは失敗かもしれません。資金が1,000万に到達しない状況でしたが仲間の転職のタイミングなどもあり、急ピッチで開設準備を始めました。今思えばどこに開設するかなどのマーケティングをするべきですが、日本一の激戦区で一番になろうと一丸になったことをきっかけに今の西新宿での開設が進みました。
5-6:会社設立から訪問看護申請の準備
巷では訪問看護ステーションの設立支援などがありますが、そういった支援は利用せず絶対自分でやりきるほうがいいです。なぜなら、公的機関が無料で教えてくれるからです(笑)
どうしても楽をしたいという気持ちはわかりますが、法令遵守などが大事な業界で申請書を通す、役所の考えを知ることは一番重要かもしれません。そして訪問看護ステーションに求められる法令が介護保険法、健康保険法、生活保護法に代表されるものを理解すべきことや、必要な施設基準は看護師3名であることなどがよくわかります。やっている時には大変だと感じますが、実際苦労して学んだことが、その後沖縄や静岡など他県での拠点展開にも活きます。その後に頭を悩める実施指導の際もこの経験があったことで、指摘が少ないステーションを運営できていると思っています。
※実施指導とは・・・実地指導とは、都道府県および市町村から担当者が介護サービス事業所へ出向き、適正な事業運営(ケアマネジメントやコンプライアンスにのっとった業務)が行われているか確認するものです。
6.さいごに
私は今看護師人生で一番充実し、やりがいに満ちています。それは当社でいきいき働いてくれるスタッフと、そのスタッフに会えるのを楽しみにしている利用者様がいるからです。
看護師として振り返ると、どんな時もいい看護師でいたいというものがベースにありました。よく訪問看護は「看護の基礎になるもの」と言われます。私もそう思います。決して病院がそうでないと言いたいのではなく、訪問看護を通して在宅での生活を支援するという形が究極の看護なのだと、私自身は思っております。そして、自分の目指す看護を利用者様と考えることができるということです。
訪問看護という素晴らしい世界に気付くにはかなり遠回りをしました。でも遠回りしたからこそ、伝えられることがあると考えています。
私は有難いことに多くの方からヒントを頂きました。そして、私がヒントを与える番だと思っております。現在1万以上のステーションができた陰に、廃止や休止となっているステーションも多く存在します。1人でも多くの看護師が訪問看護の世界に、そして自分の行いたい看護の提供を目指す一歩になればと考えています。
コメント